日比野五鳳
巨匠と呼ばれる書家は決して多くはない。
名作を残しているという共通点
巨匠と呼ばれる共通点は名作を残しているかどうかにある。日展でも現代二十人展、あるいは個展でも人の記憶に残る作品を書いているかどうかである。
間違いなくこの巨匠の一人であろう日比野五鳳は京都の人のように思われているが、岐阜の神戸町の生まれである。
日比野五鳳の生い立ち
五鳳は5歳で母親を亡くし祖父母に育てられたという。
中学時代、中央でも活躍している大野百錬が書と漢文の指導者で、その人柄にも惹かれたという。
百錬は漢字の書き手だったので、五鳳も当時は漢字を書いていた。その百錬の推薦で、大垣商業、京都の女学校に助教諭となった。
京都という土地柄と仮名古筆との出会い
その後文部省の検定試験(文検)を受験、合格したのは62歳。仮名は独学で学習した。学校に勤務するようになり必要に迫られて学習をはじめたという。
また、京都に出てきたことも大きな影響があったようで、当時、仮名の大御所であった吉澤義則はじめ名だたる仮名の専門家がいた。この頃の仮名を見ると平安朝の仮名をしっかり学習した跡が分かる。
京都はその土地柄、平安時代の仮名を肉筆で見ようと思えば見ることが出来る環境にあった。
五鳳の仮名には継色紙、寸松庵色紙、元永本古今集など古筆の影響を見て取れる。それも徹底していたようで「芸術は技術から生まれるもので技術あっての芸術」と文章を残している。
日比野五鳳の作品に学ぶ
今から15年前、日本橋高島屋で「生誕百年記念五鳳展」を拝見した。百点以上の作品が展示されていて、その全貌が分かる名品の数々が展示されていた。
東京国立博物館所蔵の「ひよこ」「いろは歌」はじめ多くの作品が展示されていたが、他にも記憶に残っている作品の多いことに驚かされた。また、若い頃書かれた王羲之の臨書作品もあった。
五鳳は常に新しい独自の作品を書いた。「新しいものが生まれてこなければ芸術ではない。
新鮮さと感動を盛り込まなければ作品ではない」と述べている。
五鳳は独自で仮名を勉強し、孤高の仮名作家となった。しかし、調べてみると漢字も熱心に学習していた。」「私は今も絶えず漢字をやっています。このことによって仮名が一段と内容が深められていく」という。
機会があれば是非肉筆を見てほしい。手に入れようと思えば多くの資料を求められます。学ぶことも多いはずです。(文中敬称略)
手島右卿
象書という言葉をご存じだろうか。これは古典学習を徹底的に実施し、その内容を十分咀嚼した上で、独自の少字数書を形にした物を言う。
名付け親は手島右卿である。
象書の世界
手島右卿が開拓したこの世界、象徴的なことがあった。
生まれは1901年。56歳の時にサンパウロ・ビエンナーレ展に出品した「崩壊」 と言う作品。審査員のペトローザがこの作品を見て、物体が崩れて行く様を書いているようだと述べたという。後日、作者からその意味を聞かされて驚いたという。
しかし、直ぐにこの作品が出来たのではなく、ものにするまで十数年。繰り返し書いたがものにならなかったという。
右卿自ら「どうしてもものにならなかったが、ある瞬間ぽかっとできた」と言う。
また、6年後西ドイツフライブルグ展に出品した「燕」。筆の穂先の動きが、まるで燕が飛んでいるようであったと言う。このようなことから海外にこの象書を広まっていった。
天分豊かな手島右卿
2011年7月に軽井沢現代美術館で「手島右卿」生誕百十年記念展が開催され出かけた。そのポスターに「書をアートにした男」と副題が付いていた。
この時は、それほど多くの作品は展示されていなかったが、百十年記念出版された「手島右卿の書」( 手島右卿生誕百十年記念実行委員会が発行) には130点の作品を掲載、右卿独自の書の世界、その全貌がうかがえる。
手島右卿は幼少期から天分豊かで、絵画も書も力量を表していた。
特に書は、十四歳で川谷尚亭の門下となり才能が評価されていたと言う。王羲之、顔真卿、空海など徹底的に学習し、その学習した書法で独自の書の表現を築き上げた。
漢字のもつ意味を表す書
日比野五鳳もそうであったが、手島右卿もその古典遍歴、その勉強ぶり、取組みに凄さがある。その成果が漢字の意味を知らない海外の審査員に作品を見て、その意味を理解出来るようなイメージを持つ書を生み出したのだと思う。
手島右卿が、その人生をかけて取り組んだ書の世界。素晴らしい世界である。
手島右卿創設の「独立展」が毎年開催されているが、会場の角々に右卿の言葉が立て看板で展示されている。
また、その語録も大変刺激を受けるものがある。幾つかをご紹介しましょう。
手島右卿先生語録
《書というもの》
私は、書というものはいつまでも推敲したりひねくったりして、拵えるものじゃないと思う。
すうっと出てくるものが良いと思う。こうやって話をしているところへ、パッと真剣でも斬ってかかってくるとする。フッと箸で受けたら向こうは来れない。
その不用意の間に叩き込んだ全部の力が出る。書もそれだけの修練を積まなければだめだと思う。(昭和43年 談話)
《美術するものの心を養え》
今日の書を作る書人としての生きがいと誇りを持とう。そのためには行住坐臥、内なる心を耕して美の感受性を培い、常にこれを蓄え、いつでも掘り起こして書の与えることの出来る懸命の努力をいたすべきである。
表現は技術によるように思うが、所詮は心そのものである。
(昭和45年 日本書道専門学校卒業生に送ることば)
鈴木翠軒
日本書道史上、最初に淡墨で作品を仕上げた作家と言ったら鈴木翠軒以外皆無と言って良いであろう。そして、漢字・仮名共、後世に残した作家希有の書人であろう。
鈴木翠軒の生い立ち
鈴木翠軒は明治二十二年愛知県、渥美半島の伊良湖に生をうけた。小、中学の時から成績は優秀で習字は特にお得意でその当時から腕の良さはかなりのものだったらしい。
また、この伊良湖という地域も書道が盛んで天性の良さを育むには良い環境であった。
中学二年の時には行書千字文を出品し知事から表彰されたという。向学心が旺盛で代用教員をした後に師範学校で学び二十七歳の時の文部省の検定、所謂文検の習字科試験に合格、三十歳の時に上京し、丹羽海鶴に師事し本格的に書の勉強に入った。
鈴木先生の書との携わり
その時学習していたは古典派蘇孝慈墓誌銘や鄭文公下碑で、さらには個人的に空海の風信帖、灌頂記、三十帖冊子、嵯峨天皇の李嶠詩などを研究していたという。
その後、四十四歳の時に国定教科書の記号という大きな仕事にあたった。この時には初唐の三大家の楷書の書風や結体を中心に、仮名では良寛や寸松庵色紙などを参考に独自の平仮名の書風を作って従来の国定教科書とは一線を画し一新した教科書は一世風靡した。
この時期、五十二歳の時に「川谷尚亭碑」という碑文を書き上げ、褚遂良の「雁塔聖教序」にも劣らないとの評判を得た。このときの揮毫は書丹といって碑に直接石に書く方法で書いたという。
研究と発展。定石となった良寛
その後「初唐の楷書は型にはまって情に乏しい」と王羲之や鐘繇のいわゆる晋唐小楷集を習い、その分間布白は自然の妙を有していて高尚と評し、国定教科書時代とは研究対象が大きく変化した。
加えて翠軒はさらに書の研究を進める。古典は自分自身の目で選択し、新しい古典の発見となり、これがきっかけで多くの書人が学習することになった。今は当たり前になったが一条摂政集、良寛に目を付けたのは翠軒であった。
多くの名作
翠軒は多くの名作を残した。国定教科書を名作というかどうかは分からないが、前述した「川谷尚亭碑」九段下の玉川堂「焼竹煎茶」目黒の八芳園にある「酔客満船」芸術院賞を受賞した「禅牀夢美人」扁額の名作を多く残している。扁額の名手と呼ばれる所以である。
そのほかにも芸術院に寄贈した「万葉千首」「翠軒の尺牘」大切にされる手紙等多くの名作を制作、七十一歳の時には芸術会員となった。
世に多くの書家はいるが漢字、仮名、漢字かな交じり書、どれをとっても名作を残した書家は皆無であろう。孤高の書家であった。


写真:鈴木翠軒先生書状(東京書道教育会講師 遠藤心齋先生所蔵」