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行書と草書

文字の誕生と変遷

漢字は中国で生まれ、殷時代後期(紀元前15~12世紀頃)亀の甲羅や獣の骨によく切れる小型のようなものを用いて直線状の線で刻み込んだ文字がある。硬骨文である。

周の時代(紀元前12~3世紀頃)には祭器として青銅器が作られ、銘文の鋳込まれたものが鐘鼎文、または金文である。

篆書について

周時代の文字を大篆(だいてん)といい、秦時代の文字を小篆(しょうてん)という。甲骨文、金文、大篆、小篆と次の漢時代の印に刻まれた繆篆(びょうてん)をまとめて篆書と呼ぶことが多い。

篆書は直線とで構成されている荘重な書体で彫るのには適しているが、筆で書くには不便であったので、秦時代(紀元前221~206年)の始皇帝は天下を統一し、広い国土を持つ国のどこの県へ行っても通行するよう文字の統一を図った。正式の文書には小篆が使われ、行政等の実務には、字形、点画を整理した隷書が使われるようになった。

行書と草書の誕生

漢時代(紀元前202~220年)は中国の文化が大いに発展した時代である。簡素で実用的な初期の古隷が、紙の発展や筆、墨の改良により、前漢末(紀元前後)には波磔(はらい、はね)の美しさを強調した八分が完成し、隷書体が正式の書体として通用した。

後漢(25~220年)には、端正で優美な隷書の石碑が多数残された。一方、実務的に速書する中で、隷書のリズムを残す行書・草書が書かれ、章草は隷書の波勢が簡略化されて草書へと変化していった。

行書は種類が豊富

8月のコラムで「楷書は最後に成立した書体」の中で、楷書、行書、草書の三体が「書」という文字で掲載されました。

楷書と草書は両極に位置する書体ですので、楷書は一体、草書もこれ以上は略せないという意味では一体になりますが、その間の形、楷書に近いものから草書に近いものまで、すべて行書の範囲に属します。

点画の省略や連続の仕方によって形が異なり、場合によっては筆順も変化します。同じ文字でありながら、行書は書体の性質上から字体の種類が豊富な文字なのです。

「松静鶴留声」

「松静鶴留声」(松静かにして鶴声を留む)行書3体、草書3体
「松静鶴留声」(松静かにして鶴声を留む)行書3体、草書3体

續木湖山先生の五体一作をご紹介します。篆書、隷書、楷書、行書、草書で書かれた作品です。

五体一作
書体:上から 篆書、行書、隷書、行書、楷書、草書、篆書

 

第2回 福百体、いくつ知っていますか?

お待たせしました。福百体第2回目です

「福」という漢字には、辞書によると「さいわい、しあわせ、よろこび、吉事、備わる、収める、蓄える」などの意味がありますが、中でも幸福を表す言葉として古くから親しまれています。

特に中国では大切にされている漢字で、幸福を招くということで、「福」と書かれた赤い紙が、多くの民家の門戸に貼られているほどです。

日本と漢字 ~日本の漢字の歴史は1600年~

中国から漢字が伝来する以前には日本には固有の文字はありませんでした。人々は神話や伝説などを全部口伝えで伝えていました。日本列島において漢字が本格的に使用されるようになるのは4世紀末から5世紀初め頃で、漢字に出会って約1,600年の歴史です。

単に伝達、文字表現の手段としての側面だけでなく、思想的・政治社会的な影響など、すなわち、言語・思想・社会など様々な分野、それぞれの時代の人々を通して日本人は漢字と付き合ってきました。

日本での漢字

漢字は日本に伝わって以降、歴史記録に公式に用いられただけでなく、一般の研究者も書籍の執筆に使用し、当時の日本で唯一の正式な文字となった。
8世紀中葉に日本人は楷書体の副次的な文字として片仮名を草書体の偏旁を使って平仮名を作り、漢字音や日本語音を表記するのに用いた。日本語の平仮名には50文字あり、それぞれにひとつの片仮名がある。当時、漢字は男文字、仮名は女文字と言われた。

「ひらがな・カタカナ」の由来

「ひらがな」は、西暦900年頃の平安時代に、それまでの画数のおおい「万葉仮名」に代わるものとして考案されました。

「カタカナ」は、西暦800年頃に、ひらがな同様 文字を簡略表示させる目的で考案されました。どちらも全て漢字がベースになっていて「ひらがな」は漢字の字体の一部を崩したものが多くなっています。(そのため、カタカナは「片仮名」と書きます。

万葉仮名とは

Examples of man'yōgana

日本語の「音」を表記するため万葉仮名が作られました。万葉仮名とは、「万葉集」で使われたことで有名な仮名の一種で、漢字の音や訓を使って表現するものです。「安」→「あ」、「加」→「か」、「佐」→「さ」のように、漢字の元々の意味とは無関係の使われ方をすることが多いです。

やがて、これを崩して書きやすくするために、平安時代初期に平仮名が、漢字の一部をもとにカタカナが作られたといわれています。平安中期は男女差別の時代であり女性は漢字を学ぶことを禁じられたため、草仮名を簡略化した別名女手が生まれて和歌が流行し、仮名書道の黄金期を迎えました。

カタカナ 字体の由来

Origin of katakana font

いくつ読めるかな? (写真:福百体、残り50字)

Hyakufukutai second half

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第1回・寿百体・いくつ知っていますか?

百寿とは何か

「百寿とは何か」「百寿は何寿と呼ぶか」「百寿の祝いの言葉」「百寿祝いのメッセージ」を説明。

長寿のお祝

暦以降の長寿のお祝いを「賀寿」といいます。古くは中国から伝わり、日本でも元服、婚礼と並ぶ三大祝儀として定着してきました。
昔は数え年で祝うのがしきたりでしたが、現在は満年齢で祝うことが多くなっています。

百寿は、賀寿(年祝い)の一つで「紀寿(きじゅ)」とも呼ばれ、数え年で100歳のこと、またその祝い(儀礼)を言います。これは、100歳の百(100)に由来する用語で、100歳を超える高齢者のことを「百寿者」ともいいます。

賀寿の詳細

賀寿とは、長生きの祝い(長老の祝い、老年の祝い)のことをいい、その年齢により、下図のようになっている。

寿百表1

一般に長寿の祝いには、お祝いの色(基調色)が決まっており、百寿は神聖さを表す「白」となっております。なお、本用語と似たような概念のものに「上寿(じょうじゅ)があり、寿命を上・中・下の三段階に分けた最上位で「100歳以上(寿命が長いこと)」を意味します。

※ 12月31日に誕生した場合、翌日(1月1日)には数え年で2歳になります。今年、誕生日を迎えた人は、「満年齢+1=数え年」になります

その他の長寿のお祝い

珍寿(ちんじゅ)95歳?110歳?112歳?や、天寿(てんじゅ)118歳?250歳?のお祝い名称も有。

100歳以降は・・・

100歳以降は毎年祝う家庭も。101歳は「百-賀の祝い」(ひゃくいちが)、102歳は「百二賀の祝い」……

108歳(満107歳)は、茶寿(ちゃじゅ)

「茶」を分解すると「十十の下に八十八」に見えるから。20+88=108歳。
不枠(ふわく)とも言う。「枠」の字を分解すると「十、八、九十に見えるから。10+8+90=100歳。

111歳(満110歳)は、皇寿(こうじゅ)

「皇」を分解すると「白(百より一を引いた99)、一、十、一」になることから。
99+1+?+1=111歳。川寿(せんじゅ)。とも言う。「川」が111と読めるため。

119歳(満118歳)は、頑寿(がんじゅ)

「頑」を分解すると「二、八、百、一、八」にみえるから。2+8+100+1+8=119歳

「百寿図」とは

「百寿図」は広西永福県の「寿字岩」にその源流を見ることができる。

宋代から現代までの筆跡をみる

「寿字岩」(古称「夫子岩」)があるのは永寧州古城から東へ2Kmほど郊外に出たところで、東光の川岸、桂融国道(桂林―融安)沿い対岸の山中にあり、洞内の岩壁には彫刻が多く、故事・伝記・詩文・古語・仏像・龍画など、宋代から現代まで各時代の筆跡が刻まれている。

この800年来、「百寿図」は非常に重宝され世に広められてきた。古代は交通の便が極めて悪かったが、それでも歴代の高官・詩人墨客が競ってこの山(寿字岩)に鑑賞に訪れた。貴族文人たちはこぞって一幅の百寿図を座敷中央の河邉に懸け、それを見に来る客が堂に満ちた。南宋以後この拓本を作る工房が各地で栄えた。

百の寿

「百寿図」とは、各種の書体を用いて書き表した百個の「寿」の字である。
よくあるのは篆書体の「百寿図」である。図の形は円形、方形、長形など様々で、大きな「寿」の中に小さな「寿」の字が組み込まれているものもある。

異なる書体の「寿」の字の組み合わせによって作成された百個の「寿」の字は、長寿百歳、吉祥如意の願いを表している。中華民族の独特な芸術を十分に体現したものであるともいえる。

1100年もの長さにわたって、「百寿図」は民間で広く普及し、今でも長寿を祝う贈り物にされている。

◆きれいな「寿」の書き方

寿百表2

※寿は一字ですので少し大きく書いても良いです。

いくつ読めるかな?「寿百体」 50体掲載(写真 寿百体)


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残り50体は10月3週目に掲載いたします。

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書道談話/竹中翠華先生

書道談話 東京書道教育会 東京書芸学園講師 竹中翠華先生

東京書道教育会では通信講座の添削指導や、通学部「東京書芸学園」の授業を指導力豊富な先生方にご担当いただいております。
各分野の先生方にお伺いした書道に関するお話を第5週目に掲載いたします。今回は、東京書芸学園 大阪校の「書道クラス」でご指導いただいております竹中翠華先生です。

座右の銘『一期一会』の由来

『一期一会』の語源は「茶会に臨む際はその機会を一生に一度のものと心得て、主客共に互いに誠意を尽くせ」といった茶会の心得から来ているとされています。

日々誠意を尽くして

この言葉を元に日頃出会う方々にはつねに誠意を尽くした行動をとるように心がけています。再び会う事がないかもしれないその方のお役に立つことで少しでも喜んでもらえれば良いなと思います。

ただそれだけの気持ちに過ぎないのですが、この誠意が度々巡り巡って自分の幸せにつながることがあります。
また自分自身でなくとも自分に縁ある人達(家族、友人、知人)の幸せにつながることさえあります。これには私自身の幸せ以上の喜びを感じます。

ちょっと嬉しい出来事

こんな事がありました。たまたま駅で見かけた4、5人の外国人グループが大きなトランクを持ってなにやら困っているところに遭遇しました。英語に全く自信は無いのですが、簡単な単語と身振りでお役に立てる事が出来ました。
その数週間後、離れて暮らしている娘から、「今日は道に迷ったけれど知らない方に目的地まで案内してもらったよ」という話を聞き驚きました。

これは単なる偶然かもしれませんが、このような経験は度々あります。

小さな事でも誠心誠意行う、そういう思いを込めてこの一期一会を座右の銘に挙げています。
授業においても多くの教室の中からお越しいただいた生徒さんとの時間を大切にし、少しでも書道の魅力をお伝えできるよう誠意をつくしていきたいと思います。

書道を始めたきっかけ

書道の楽しい記憶

小学生に上がる頃、母の勧めで現在学園講師でもある田村翠園先生の主催する書道塾に通い始めたのがきっかけです。
小学生の頃は学校の教室や廊下に作品を展示してもらえるのが嬉しくて、書道の時間が大好きでした。

また「はとぶえ」という冊子に掲載していただいた作品を、小さな木のついた桐板にコピーしたものを記念品として戴いた事はとても嬉しく、今でもよく覚えています。

中学校に入学後、田村先生から東京書道教育会の通信講座のペン字と書道の両コースを紹介いただき、入会しました。
その後、高校時代はバスケットボールにも明け暮れましたが、田村先生の熱心なご指導の下、教室の課題に加えて上記の通信講座をこなす事ができました。

人生の節目に改めて考えてみる

その後、結婚、出産、子育てと生活環境がすっかり変わり、通信講座も中断、先生の書道塾に通う事もままならないようになりました。
ふと、「私の人生は何?自分の時間は?」と自問して出た答えが、子供がお腹にいるときも、子育てに追われているときも、好きで打ち込める事が書道であることに気づきました。

改めて書道を好きと思えるようにご指導していただいた、田村先生に深謝し、人生の節目において幾度となく中断してきた通信講座を復活し、好きな書道で自分の時間を創ろうと決めました。

そしてその頃から、それまでにも増して書道に積極的に取り組むようになりました。
とはいえ突き詰めるほどに”書道”の奥深さを痛感する日々です。今後益々精進努力してゆきたいと思います。

作品づくりで心がけていること

竹中先生作品写真2

題材探しのコツ

題材探しについては、日頃よりアンテナを廻らすように心がけています。街中での看板、ポスター、キャッチコピー、新聞、雑誌など。素敵な言葉に出会えた時はメモをとります。そのため出先にはメモ帳を携帯しています。
最近では携帯電話の写真機能が便利になりました。

また先人達の詩や文章を引用するため、古本屋や図書館を利用する事もあります。作品の展示会場、季節、作品の大きさ、目的により題材が決まります。
次にどのような作品に仕上げるかを想像し紙・筆・墨を選び、草稿作りをします。その際、参考資料として辞典や字典で確認し、存在すれば原本を閲覧します。これは、思い込みによって誤字、誤記、脱字をしないためです。

鑑賞する力を養いたい

そしてここからが悪戦苦闘の始まりです。作品に起承転結のような自然な流れが表現できているか?書いては掲げ、掲げては書いての繰り返しです。行き詰まった時は古典に戻り気分転換。
そうこうしている間に締め切り日が提出日になってしまうこともしばしばです。最近特に心がけている事は、鑑賞眼を高める事と書線を磨く事、そして人としての成長です。

鑑賞眼を高める事としては展覧会や美術館など、できる限り色々な物を見聞きするようにし、書線を磨く事としては古典の臨書を欠かさないようにしています。
また自分自身の成長が表現の幅を広げることにつながると考えています。

まだまだ未熟ではございますが、魅力を感じてもらえる作品づくりを目指していきたいと思います。

最後に、竹中先生に通信講座「書道師範講座初級」の学習内容12課題について、各課題のポイントを列記していただきました。

課題内容 各課題のポイント
秋月 基本点画の左払いの違いを学びます。秋の一画目はほぼ横に、四画目はあまり曲げず、八画目は中間点までは垂直に、そこから曲げていきます。月の一画目はわずかにそらせてに払います。

ボールペン・バイオリン・サッカー カタカナの筆使いは漢字の楷書の部分を学ぶ事につながります。止め、はね、払い、折れの違いを大切に、特に『ボ』の二画目ははね、三画目、四画目は止めます。

日新 『日』は小さめに、『新』は日よりやや大きめに書きます。氏名は左の余白の中央あたりに書き、半紙に2文字をバランスよく収める事を学びます。

遊雲 しんにょうの上に”方”、”子”の部分が来るので縦長に書き、しんにょうの一画目は大きく打ち、二画目は一画目よりやや左から書きます。あめかんむりは三画目の横画と四画目の縦画の交わる位置に気をつけて右側の横画の長さが左より長く見えるように横画を引き、中の点の大きさ、位置に気をつけます。

名花 『名』は「夕」の一画目から三画目まで連続、「口」の二画目から四画目までの連続した筆使いを学びます。『花』は一般的な行書体で二画目から五画目までの線の方向また筆圧のかけ方などを学んでください。

詩情 「ごんべん」「りっしんべん」の行書体を学びます。「ごんべん」の行書体は三画目からかなり省略された形になっていますが「さんずい」を書くつもりで書くと良いです。

淡如水 半紙に3文字を収める字配りを学びます。全体を体裁よく収めるため、一字一字墨をつけず、墨をつけたならイッキに落款まで書き上げても良い練習になります。どうしても墨が足りない場合は「水」で少し足して落款まで書くと良いです。

おめでとう 行書風ひらがなの大小の違いを学びます。ここでは「め」、「と」を小さく書き、「お」「で」「う」は大きめに書きます。また、「お」「で」の点の位置に気をつけて書いてみましょう。

思いやり 「思」の「田」は縦画をすぼませ、下部を出します。「心」の三画目の点は中心に打つと安定します。「い」は横長に、「り」は縦長に書き、漢字と調和させます。

清く聖なるものしろがねの月の光地をめぐむ 漢字が行書の場合、ひらがなも行書風に書き、落款も含めて調和よく書きます。ひらがなを連綿で書く場合、「が」、「ぐ」の濁点は「か」「く」を先に書き、下の文字を書いてから戻って濁点を打つと流れが出ます。

「北海道・・・三重」(行書) 28の都道府県を半紙に体裁よく収めます。都道府県が2文字、3文字であっても統一感があり、都道府県と都道府県の間が詰まりすぎぬように注意してください。

「一筆申し上げます・・・かしこ」 字形を整えて書くことはもちろん大切ですが、行の流れの美しさを学びましょう。そのために、ある程度の速度も大切にして、手を休めずに手本を見ながら次を書き続けるような練習もしてみましょう。

竹中先生、ありがとうございました

Shinbi-classroom

書道教室 伸美Shinbi

東京都荒川区 「 書道教室 伸美Shinbi 」
塾長:竹井美帆子 2014年6月開塾

自己紹介

私が書道教室を開塾したのは、今から2年前。子供の成長と共に何か仕事を始めたいと思い、自分の得意だったこと、好きだったことは?と考え、小学1年生から12年間続けた書道を思い出しました。

文化交流から身近な文化継承へ

当時進学と共に上京し、書道から離れてしまいましたが、書道を通して「文化交流」に関わる仕事を探したいと思い、もう一度勉強させてもらうことにしました。

20年のブランクをすっかり忘れ夢中で書く私の姿を見て、小学校低学年だった次男が自分もやりたい!!やりたい!!と…その言葉に背中を押され、身近な人に教えることから始めようと思い改め、開塾させていただきました。

教室の特徴

当教室は、私が子供の頃田舎で学んだ広いスペースでの環境とは全く違います。
東京の自宅マンションリビングを都度改造?し、1回4~5人を時間制で回転させ試行錯誤しながら、現在は約30人の生徒達と賑やかに行っています。

こうしてリビングを使ってできるのは、家族の理解のお陰。特に主人は、帰宅すると「墨がいい香りだね」と言ってくれます。感謝しています。

開塾時、子供達に教えるという点ではほとんど抵抗なく、自分のイメージを持って始めることができました。それは、私の学生時代の小学6年間と中学・高校6年間、そして開塾前の「東京書芸学園」で学んだ2年間と、私の心に残るたくさんの先生方の教えがあり、年齢に応じた教え方が私の中である程度まとまっていたからです。

心がけていること

私が子供達のお稽古で心がけていることは、それぞれのペースでたくさん褒められながら楽しく続けられること。そして、何より一人ひとりの手を持ち、私の発する言葉のリズムと手の感覚で学んでもらうことを一番に励んでいます。

 State of the guidance

State of the classroom

子供達が好きなこと

子供達が好きなことの一つは、墨を磨ること。多くの子供達は月の初め1回だけ取り入れている墨磨りを楽しんでいます。

学校で体験できないことを塾で

学校ではなかなか機会のないことなので、本物に触れながら、心静かにお習字の世界に入ってほしい…という思いで行っています。

しかし、何とも思い届かず元気に磨り過ぎて、手も道具も真っ黒さんが少なくなく…私の手までも真っ黒になってしまいますが、そんな子供達ほど墨を磨りたがります。遊んでいるのかな?それでもいいと思っています。

筆心の楽しみ方

また、「筆心」の月例コンクール欄から自分の名前を探すことが皆好きで楽しみにしていす。

こちらで一人ひとり、低学年は級を書いた付箋を掲載ページに挟み、本人の名前と賞に蛍光ペンで印をつけておきます。高学年は、印なしで自分で名前を探します。金賞、銀賞…それぞれ目を輝かせて自分の名前を探します。

ワークショップで自由な楽しみ方を提案

そしてもう一つ、夏休みに行っているワークショップ。

自分で書きたい文字を決め、高学年や中学生は行書や草書など、低学年は楷書で練習し、好きな色紙を選んで清書します。
名前の下には私の(?)雅印を押し、その後はカラフルな和紙を折ったり切ったりして貼りつけ、ちょっと特別な色鉛筆で装飾したりして思い思いのアート作品を作ります。この時ばかりはみんなでワイワイお喋りをしながら自由に行っていいことになっていて、とても楽しそうです。

Fun workshop

子供達がお習字を始めて変わったこと

子供達が変わったことといえば、多かれ少なかれ「文字への意識」でしょうか。

自己流から美文字への意識

特に高学年から入塾した生徒が多いため、その変化がよく分かります。

自己流が身についてしまっているものの、自分の意思で始めたお習字、綺麗に書こうという気持ちを日常的に持ってくれるようになったと感じます。特に硬筆の時には、繰り返しこう伝えます。

意識を芽生えさせることが大切だと考えます

「自分だけが見るメモはミミズの字でもいいけど、人に伝えるもの、後に残すもの、飾るものは、早くても丁寧に書こうね!特に平仮名が大事!学校でもお家でも意識して!」と。

いくらお稽古に通っても、意識なしには日常的な上達は期待できません。
毛筆と硬筆のお稽古の相乗効果を感じている今日この頃ですが、お母さん方からも「先生からノートが綺麗だと褒められました。」「早く書いても綺麗に書けるようになって嬉しいです。」など、私にとって何よりのお言葉をたくさん頂けるようになりました。

お稽古を通して心に残る体験をしてほしい

又、何か自信をつけさせたいという思いでお習字を始めさせる方もいらっしゃいますが、勧めで始めたお習字が楽しみに変わっていくタイプの子供達は、願い通り少しずつ「自信」がついていると感じます。

そして自信といえば、私が行っていること、優秀作品で掲載された当教室の子供達の写真ページ一つひとつに付箋をつけ、みんなに見てもらうようにしています。
その子の自信に繋がり、そして自分も載りたい!!思って続けてほしいからです。

これから、ますますパソコンの世の中になっていくからこそ輝く手書きの良さを伝え、塾名「伸美」のごとく美しく伸びるよう願いながら、そして国際社会へと進む中、「日本文化」の一つとしての書道が子供達の何かのきっかけとなることを願いながら、これからも子供達と一緒に楽しく励んで参ります。

百福

第1回 福百体~いくつ知っていますか?

百福とは

古来より伝わる篆書体(てんしょたい)の「百福」を百種選び揮毫したものです。

縁起の良い書体

文字通りたくさんの「福」という意味で、古来から伝わる≪篆書体≫の福を選んで揮毫≪記号≫したもの、縁起物として広く大事にされてきました。

篆書体(てんしょたい)とは漢字の書体の一種で現在一般的に使われている漢字が発展してゆく過程でできた書体で中国の紀元前の王朝西周~秦の時代に公文書に使われていた書体です。

現在は印鑑の書体(印篆)、観賞用の書体として使われています。

≪百福≫というのはもともと中国の言葉で、中国では古くから≪百福図≫という漢字を100種類の字体で書いた掛け軸などを家に飾っておくと、特別な福がもたらされると信じられています。

百福は日本の新古今和歌集にも登場し、徳の源として百福としています。

新古今和歌集は鎌倉時代初期、後鳥羽上皇の勅命によって編纂された和歌集です。耽美的・情調的・絵画的・韻律的・象徴的・技巧的などの特徴が挙げられる和歌集です。
また仏教では百福を百福荘厳とします。

「百福」とは百思のことで初心とその成就との前後の五十思を合わせたものです

五十思とは不殺生などの十善業に、例えば離殺などの五つの思いがそれぞれあるとして50と数えたものです。
一々の相がそれぞれ初心の五十思とそれが成就満足した五十思の百思によって完成したとします。

作者は唐代の李陽氷(りようひょう)だといわれます

字少温、唐幻想開巌元の時生趙群の人。集賢院学士です。最も篆書に長じ、唐代第一の篆書の巨腕であったことは何人も異議はない人です。

中国の「福」の字について知っておきたいこと

赤い「福」の文字が壁に貼られているのを見たことがある方も多いのではないでしょうか。

福が逆さまに書かれる理由

中国語で「福」が到来するというのは、福到(fudaoと発音)と言います。
到(daoと発音)には到来するとか、行く、くる、達するなどの意味があり、さらに発音が同じ倒≪dao)という言葉もあります。
これは「逆さま」もしくは「反対」という意味で、つまり中国ではこの意味と読みをかけて、「福」という文字を反対にすれば福が訪れるというように信じられているのです。

福の字を成り立ちから考えてみる

「福」の漢字の成り立ちについて偏(へん)は、示偏ですが、「示」は神様の祭壇の形を表しているのだそうです。また、旁(つくり)の部分は、物が沢山入っている倉の形を表しているそうです。

つまり、「福」という漢字は、神様からの恵みが沢山もらえることを意味しているのです。笑う門には福来たる、とはこういうところから来ているのですね。

「百福」というのはもともと中国の言葉で、文字通り「たくさんの福」というような意味です。中国では古くから「百福図」というのがあって、「福」という字を100種類の字体で書いた掛け軸などを家に飾っておくと、特別な福がもたらされると信じられています。
現代の中国でも「百福」という名称は縁起の良い名前ということで、飲食店などに多く使われています。引用 『オフィス百福HP』

漢字の歴史を知ろう

私たちが普段何気なく書いている漢字についてその歴史を学んでみましょう

漢字の発明者「殷王朝」と普及者「周王朝」

漢字が生まれたのは、今から3300年前(約紀元前1300年)の中国、「殷王朝」によって発明された甲骨文字です。
その漢字は、今とは全く異なる使い方をされていました。

「殷」では、穀物の豊穣を願う雨乞いから祭りや戦の時期まで、あらゆることを文字を刻んだ亀の甲羅や獣の骨のひび割れで占いました。これが象形文字を起源とする「甲骨文字」で、神との対話のために生まれたのが漢字だったのです。

漢字の革命

殷から周への王朝交代を生んだ古代最大の天下分け目の激戦で、「殷」との戦いに勝利した新しい王朝「周」は、神との交信のためだった漢字を、他部族との契約に使うという発想の大転換をしました。話し言葉の違う部族でも見れば意味を理解し、意思疎通ができる憑依文字である漢字は、瞬く間に浸透していきました。

漢字の始まりと革命

The beginning of the Chinese characters and Revolution

Changes in Chinese characters

晋代以降の書法では、草書、楷書、行書が生まれて急速に発達

行書は草書と楷書の中間字体であり、篆書、隷書の速記速度の遅さと草書の判読しにくさを解決するために作られました。時代によって楷書を草書化し、草書を楷書化した文字もあります。

楷書、行書、草書が文中に含まれる比率で呼び名がついていました

楷書が草書より多く含まれるものは「行楷」、草書が楷書より多く含まれるものは「行草」と言われていました。

行書は漢代末期にはまだ広く使用されておらず、晋代に王羲之が登場すると初めて流行し始めました。行書は王羲之の手で実用性と芸術性が見事に融合され、後世に名の残る南派の行書芸術が生まれて書法史で最も影響のある宗派となってきました。

福百体

いくつ読めるかな? 「福百体字」

Fuku-hundred-Font

※時代考証的にも種々の字体がありますが、ここでは甲骨文字から。
(右上から下へ→順次左に)
(残り50字は9月2週目に掲載いたします。)

この栄えをなほふもとにてのぼりゆく君をあらたにまてる花みち 歌とともに君を祝ふ

かなの特徴

放ち書き

かな作品制作の技法の一つとして、放ち書きが有る。文字通り続けないで、一文字ずつ放して書くことである。

放ち書きの成立

近、現代の作家に依る書作品の中には、溜息の出るような、素敵な作品を見る事が出来る。
しかし乍ら、放ち書きは近、現代に起ったものではなく、既に古典の元永本古今集の中に見る事が出来る。連綿の中に放ち書きが交じる物も有れば、一首総てが放ち書きの歌も有る。

実際の作品制作に於いても、連綿しつつ、放ち書きも交じるのが妥当だろうと思う。
勿論、総て平仮名による放ち書きの作品を書かれる書家は居る。

現代詩歌の感覚を活かす技法のひとつとして

どちらにしろ、字と字は続いていなくとも、筆路、筆意はつながっていて、空間を挟んで字と字は呼応していなければならない。
生まれた空間は、より歌意を強くし、造形的にも紙面を美しくしなければならない。

古歌よりも、現代の歌を書こうとする時、現代の歌の感覚を生かそうとする時、それはより必要な技法ではないだろうか。

現代詩歌例
読み下し:快活に見舞ひて帰るエレベーターのしまる瞬時の夫の顔かな(西原寛子先生自詠)

散らし書き

かなの散らし書きは、かなが進化していく段階で生み出された、かな書道独特の表現法である。
それは、日本人しか持たない美の感覚であり、中国の漢字作品には無い物である。

古典にみる散らし書き

古典の、継、寸松庵、升の三色紙は、散らし書きの要素総てが含まれた、至高の作品である。
作品制作に於いて、散らし方には特に決まりは無い。構成を三角形にするのが良い、と一般的に言われるが、あくまで個人の自由、各自の美的感覚に任せれば良い。

散らし書きの基本

基本的な事としては、行を寸胴にしない、文字は大小、疎密、行間の変化と隣の行との関わり合い、等を工夫し、全体を一つの造形的、美のうちに収める事、である。

その為に、所々に変体仮名を使い、連綿を使う。字の形をデフォルメしたり傾けたりも必要となって来る。隣、上下で喧嘩しないように工夫する。
墨つぎの場所も又しかりである。潤渇も美の要素の一つである。

そして大切なのは、歌意を生かすことである。歌にはリズムが有り、そのリズムに依って、又、使う文字に依って形は決まってくると思う。強調したい思いの文字や、星、天、神などの文字は、なるべく小さくしたり、下部では使いたくない。
心をこめて取り組みたいと思う。

かな 書き散らしの例
読み下し:我が門の茨の芽などしめやかに むしりて過ぐる人ある夕べ(岡本かの子の歌)

余白の美

余白の美、とは、禅宗が入ってきた鎌倉時代以降の認識、書かない「無」の空間の美、である、と何か本で読んだ。
なるほど、日本人特有の美意識とは、そういう所からも生まれているのか、と、認識を新たにする。

余白は無ではない

しかしその空間は、最早「無」ではあるまい。
宇賀先生の、この作品の空間は、確かに美しい。一枚目上部の紙面四分の一もの空き、そして二枚目の大胆な広さ、絶妙の造形美だと思う。一首を二枚、上下に配した技法、感嘆の他無い。

宇賀先生の歌にみる姿勢

歌は「新しき道に分け入るひとすじの心確かめ花の下行く」と読む。宇賀先生の御姿勢を見る思いがする。

その空間は、歌の意を殊更強める為の息継ぎの役目を果たしているように思える。特に二枚目、「心たしかめ」で区切り、大きく空けて、「花の下行く」と続く。毅然と歩まれる、先生の強い決意が滲み出てはいまいか。

いつの時も、確かな歩みをされていた、先生の在りし日のお姿が偲ばれる作品である。

宇賀先生の作品
宇賀先生の作品

冒頭の読みくだし

この栄えをなほふもとにてのぼりゆく君をあらたにまてる花みち 歌とともに君を祝ふ

續木湖山臨書選「賀蘭汗造像記」

楷書は最後に成立した書体

各書体の特徴

楷書

楷書は一点一画をきっかりと完成させながら、文字を構築していきます。はっきりと整理された点画の表現や折れ、曲がり方が特徴です。
整然と組み立てられるこの書体は、分かりやすく読み違えることがないので、契約書などに広く使われている書体です。

行書

線質は柔和と丸みがあり、楷書の点画を、柔らかく繋げて書かれた文字が行書で、ひとつの文字にいくつもの形があります。行書は草書ほどではありませんが速記向きであり、楷書ほどではないのですが明快なので実用に向いています。

草書

草書は、点画が省略されていて簡便な書体で、速く書けるのが一番の利便ですが、行書よりも省略した形をとるため、文字ごとに形を覚えなければなりません。また「草」は草稿などの「草」で、下書き、ぞんざい等の意味もあるため、現在では実用上からは敬遠されています。

楷書から行書、草書へ

完成順序

中国で生まれた漢字は、絵文字から発生して、歴史とともに展開してきました。殷時代後期(紀元前1400年頃~1100年頃)の甲骨文や鐘鼎文から、漢字の成り立ちを探ることができます。

最初に生まれた篆書

秦の始皇帝は各国の文字を整理統一して、篆書が生まれました。その後、篆書を簡略化して生まれたのが隷書です。

隷書を速書きする過程で書かれるようになったのが草書ということになりますが、余りにも簡便な書体で、もう少し整えて読みやすく、しかも美しい文字として行書が確立しました。
隷書や行書が変化する過程で、最後に書かれるようになったのが、楷書と考えられます。

楷書の完成期

楷書は、三世紀中頃から書かれるようになったと考えられています。

隋や唐の時代に成立

漢代の標準的な書体であった隷書に代わって、南北朝から隋、唐にかけて、標準となった書体です。行書体が確立した時代に発生したため、文字の中では最後に生まれた書体です。七世紀唐の時代には、美しく完成されました。

書体が洗練されたのは、初唐の太宗の時代で、欧陽詢の「九成宮醴泉銘」は「楷書の極則」を伝えるものとして有名です。

九成宮醴泉銘の臨書「泉石」(書道師範講座中級編より:續木湖山先生臨)
九成宮醴泉銘の臨書「泉石」(書道師範講座中級編より:續木湖山先生臨)
九成宮醴泉銘の臨書「大成」(書道師範講座中級編より:續木湖山先生臨)
九成宮醴泉銘の臨書「大成」(書道師範講座中級編より:續木湖山先生臨)
續木湖山臨書選「積時帖」
行書:續木湖山臨書選より「積時帖」
續木湖山臨書選「崔子玉座右銘」
草書:續木湖山臨書選より「崔子玉座右銘」
書道の巨匠トップ

近代の巨匠

日比野五鳳

巨匠と呼ばれる書家は決して多くはない。

名作を残しているという共通点

巨匠と呼ばれる共通点は名作を残しているかどうかにある。日展でも現代二十人展、あるいは個展でも人の記憶に残る作品を書いているかどうかである。
間違いなくこの巨匠の一人であろう日比野五鳳は京都の人のように思われているが、岐阜の神戸町の生まれである。

日比野五鳳の生い立ち

五鳳は5歳で母親を亡くし祖父母に育てられたという。

中学時代、中央でも活躍している大野百錬が書と漢文の指導者で、その人柄にも惹かれたという。
百錬は漢字の書き手だったので、五鳳も当時は漢字を書いていた。その百錬の推薦で、大垣商業、京都の女学校に助教諭となった。

京都という土地柄と仮名古筆との出会い

その後文部省の検定試験(文検)を受験、合格したのは62歳。仮名は独学で学習した。学校に勤務するようになり必要に迫られて学習をはじめたという。

また、京都に出てきたことも大きな影響があったようで、当時、仮名の大御所であった吉澤義則はじめ名だたる仮名の専門家がいた。この頃の仮名を見ると平安朝の仮名をしっかり学習した跡が分かる。

京都はその土地柄、平安時代の仮名を肉筆で見ようと思えば見ることが出来る環境にあった。
五鳳の仮名には継色紙、寸松庵色紙、元永本古今集など古筆の影響を見て取れる。それも徹底していたようで「芸術は技術から生まれるもので技術あっての芸術」と文章を残している。

日比野五鳳の作品に学ぶ

今から15年前、日本橋高島屋で「生誕百年記念五鳳展」を拝見した。百点以上の作品が展示されていて、その全貌が分かる名品の数々が展示されていた。
東京国立博物館所蔵の「ひよこ」「いろは歌」はじめ多くの作品が展示されていたが、他にも記憶に残っている作品の多いことに驚かされた。また、若い頃書かれた王羲之の臨書作品もあった。

五鳳は常に新しい独自の作品を書いた。「新しいものが生まれてこなければ芸術ではない。
新鮮さと感動を盛り込まなければ作品ではない」と述べている。

五鳳は独自で仮名を勉強し、孤高の仮名作家となった。しかし、調べてみると漢字も熱心に学習していた。」「私は今も絶えず漢字をやっています。このことによって仮名が一段と内容が深められていく」という。

機会があれば是非肉筆を見てほしい。手に入れようと思えば多くの資料を求められます。学ぶことも多いはずです。(文中敬称略)

手島右卿

象書という言葉をご存じだろうか。これは古典学習を徹底的に実施し、その内容を十分咀嚼した上で、独自の少字数書を形にした物を言う。
名付け親は手島右卿である。

象書の世界

手島右卿が開拓したこの世界、象徴的なことがあった。

生まれは1901年。56歳の時にサンパウロ・ビエンナーレ展に出品した「崩壊」 と言う作品。審査員のペトローザがこの作品を見て、物体が崩れて行く様を書いているようだと述べたという。後日、作者からその意味を聞かされて驚いたという。

しかし、直ぐにこの作品が出来たのではなく、ものにするまで十数年。繰り返し書いたがものにならなかったという。
右卿自ら「どうしてもものにならなかったが、ある瞬間ぽかっとできた」と言う。

また、6年後西ドイツフライブルグ展に出品した「燕」。筆の穂先の動きが、まるで燕が飛んでいるようであったと言う。このようなことから海外にこの象書を広まっていった。

天分豊かな手島右卿

2011年7月に軽井沢現代美術館で「手島右卿」生誕百十年記念展が開催され出かけた。そのポスターに「書をアートにした男」と副題が付いていた。

この時は、それほど多くの作品は展示されていなかったが、百十年記念出版された「手島右卿の書」( 手島右卿生誕百十年記念実行委員会が発行) には130点の作品を掲載、右卿独自の書の世界、その全貌がうかがえる。

手島右卿は幼少期から天分豊かで、絵画も書も力量を表していた。
特に書は、十四歳で川谷尚亭の門下となり才能が評価されていたと言う。王羲之、顔真卿、空海など徹底的に学習し、その学習した書法で独自の書の表現を築き上げた。

漢字のもつ意味を表す書

日比野五鳳もそうであったが、手島右卿もその古典遍歴、その勉強ぶり、取組みに凄さがある。その成果が漢字の意味を知らない海外の審査員に作品を見て、その意味を理解出来るようなイメージを持つ書を生み出したのだと思う。

手島右卿が、その人生をかけて取り組んだ書の世界。素晴らしい世界である。

手島右卿創設の「独立展」が毎年開催されているが、会場の角々に右卿の言葉が立て看板で展示されている。
また、その語録も大変刺激を受けるものがある。幾つかをご紹介しましょう。

手島右卿先生語録

《書というもの》

私は、書というものはいつまでも推敲したりひねくったりして、拵えるものじゃないと思う。
すうっと出てくるものが良いと思う。こうやって話をしているところへ、パッと真剣でも斬ってかかってくるとする。フッと箸で受けたら向こうは来れない。

その不用意の間に叩き込んだ全部の力が出る。書もそれだけの修練を積まなければだめだと思う。(昭和43年 談話)

《美術するものの心を養え》

今日の書を作る書人としての生きがいと誇りを持とう。そのためには行住坐臥、内なる心を耕して美の感受性を培い、常にこれを蓄え、いつでも掘り起こして書の与えることの出来る懸命の努力をいたすべきである。
表現は技術によるように思うが、所詮は心そのものである。
(昭和45年 日本書道専門学校卒業生に送ることば)

鈴木翠軒

日本書道史上、最初に淡墨で作品を仕上げた作家と言ったら鈴木翠軒以外皆無と言って良いであろう。そして、漢字・仮名共、後世に残した作家希有の書人であろう。

鈴木翠軒の生い立ち

鈴木翠軒は明治二十二年愛知県、渥美半島の伊良湖に生をうけた。小、中学の時から成績は優秀で習字は特にお得意でその当時から腕の良さはかなりのものだったらしい。
また、この伊良湖という地域も書道が盛んで天性の良さを育むには良い環境であった。

中学二年の時には行書千字文を出品し知事から表彰されたという。向学心が旺盛で代用教員をした後に師範学校で学び二十七歳の時の文部省の検定、所謂文検の習字科試験に合格、三十歳の時に上京し、丹羽海鶴に師事し本格的に書の勉強に入った。

鈴木先生の書との携わり

その時学習していたは古典派蘇孝慈墓誌銘や鄭文公下碑で、さらには個人的に空海の風信帖、灌頂記、三十帖冊子、嵯峨天皇の李嶠詩などを研究していたという。

その後、四十四歳の時に国定教科書の記号という大きな仕事にあたった。この時には初唐の三大家の楷書の書風や結体を中心に、仮名では良寛や寸松庵色紙などを参考に独自の平仮名の書風を作って従来の国定教科書とは一線を画し一新した教科書は一世風靡した。

この時期、五十二歳の時に「川谷尚亭碑」という碑文を書き上げ、褚遂良の「雁塔聖教序」にも劣らないとの評判を得た。このときの揮毫は書丹といって碑に直接石に書く方法で書いたという。

研究と発展。定石となった良寛

その後「初唐の楷書は型にはまって情に乏しい」と王羲之や鐘繇のいわゆる晋唐小楷集を習い、その分間布白は自然の妙を有していて高尚と評し、国定教科書時代とは研究対象が大きく変化した。

加えて翠軒はさらに書の研究を進める。古典は自分自身の目で選択し、新しい古典の発見となり、これがきっかけで多くの書人が学習することになった。今は当たり前になったが一条摂政集、良寛に目を付けたのは翠軒であった。

多くの名作

翠軒は多くの名作を残した。国定教科書を名作というかどうかは分からないが、前述した「川谷尚亭碑」九段下の玉川堂「焼竹煎茶」目黒の八芳園にある「酔客満船」芸術院賞を受賞した「禅牀夢美人」扁額の名作を多く残している。扁額の名手と呼ばれる所以である。

そのほかにも芸術院に寄贈した「万葉千首」「翠軒の尺牘」大切にされる手紙等多くの名作を制作、七十一歳の時には芸術会員となった。

世に多くの書家はいるが漢字、仮名、漢字かな交じり書、どれをとっても名作を残した書家は皆無であろう。孤高の書家であった。

鈴木翠軒先生書状

鈴木翠軒先生書状宛名部分
①鈴木翠軒先生書状宛名部分
鈴木翠軒先生書状書面
②鈴木翠軒先生書状書面

写真:鈴木翠軒先生書状(東京書道教育会講師 遠藤心齋先生所蔵」

葉音書道教室トップ画像

葉音書道教室

大阪府大阪市「葉音書道教室」
塾長:古西行代(雅号:葉音) 2012年2月開塾

書道をはじめたきっかけ

大阪校に通学しながら大阪市内の自宅で教室をしている古西葉音(こにし はおん)と申します。

当初は小中学生の9年間習っていた習字をまた習いたいという気持ちと、今後資格として何かの役に立てばいいかなという思いから書道師範講座を受講し正師範免許を取得しました。

塾をはじめたきっかけ

正師範免許を取得後も書くことが楽しく筆心の月例コンクールや展覧会に出品したりして過ごしていたある日、長男のお友達のお母さんから『教室はされないんですか?』とお話をいただきました。

不安だらけで凄く悩みましたが、子供へ教えることで基本的なことをもう一度見直すチャンスにもなるし、自宅で少人数なら自分にも出来るかなと思い開塾することにしました。

最初の1ヶ月は生徒さんと1対1。不慣れな私、お互い緊張の1時間でした(笑) が、その時間が私にゆっくりと筆心を使っての指導方法や時間の使い方を学ばせてくれました。
その後はご紹介によって1人が4人、4人が6人と少しずつ生徒さんを増やしていく事が出来ました。

 

写真1-学習の様子
学習の様子その1
写真2-1 学習の様子
学習の様子その2
写真2-2 集中して書きます
集中して書きます
写真2-3 硬筆も丁寧に
硬筆も丁寧に

 

塾運営の工夫

うちの教室は定員4人を1時間入れ替えで行っています。毎回少人数でワイワイ。

息抜きと集中のメリハリ

個別指導に近い状態で1時間ずっと集中し書き続けるのは子供達もしんどいはず。
準備中に学校での出来事を聞いたり合間に冗談を言ったりして時々気を抜く時間も作っています。

気を抜いた後はしっかり書いてもらっています。
集中し綺麗な文字を書けるようになって欲しいのは勿論ですが何より書くことが好きになって欲しいと思っています。

ときどき思い出して書いてもらう

お手本どおりの綺麗な文字が書けた時、苦手な右払いが上手く出来た時、筆心に自分の作品が載った時などは本当に嬉しそうな笑顔を見せてくれる子供達です。

普段の学校生活の中でもここと同じような字を書いて欲しいですがそれはなかなか難しい様子。
時々でいいので私に言われたことを思い出しながらノートを書いて欲しいと伝えています。

ゆっくりと落ち着いて、字の形やバランスを気にしながら整った文字を書いて欲しいです。教室に通えなくなってからも習っていて良かった、久し振りに筆が持ちたいな、綺麗な字を見ると書けると気持ちいい、などこれからも自分の字に関心を持ち続けて欲しいと願っています。

わたしの目標

冒頭にも述べましたが私は現在東京書芸学園大阪校に通っています。まだまだ未熟な私です。

様々なジャンルにチャレンジ

正師範取得後も月に1回ずつですが古典臨書とかな書道を受講しています。
古典臨書は師範講座でゆっくり学べなかった古典の筆使いを全臨して学ぶことが出来たり、一緒に受講している師範取得者の皆さんの作品を見せていただいたりして刺激を受けています。

かな書道は多少苦手意識があり、漢字と全く違う筆使いに試行錯誤しながら勉強しています。

知れば知るほど増すやりがい

元々は自分自身が楽しみたかった書道。書けば書くほど、知れば知るほど書道の難しさがわかってきますが、やっぱり楽しくて筆を持つと気分がいい。

子供達に教えながらもっともっと自分自身の力も付け今後も展覧会などに出品していきたいと思っています。いつもご理解ご協力をしてくださる保護者の皆様に感謝し、沢山の力と笑顔をくれる子供達と一緒にこれからも『書』を楽しみ続けていきたいと思います。

 

学習中の臨書作品
学習中の臨書作品