新墨と古墨
「墨はいつも呼吸しています」・・・。
なるほど、と思われますか?皆さんの手元にある墨も常に呼吸をしています。
固形の墨を見ただけではわからないのですが、製墨の過程で乾燥中に微細な空気穴が作られます。この穴が日々の温度・湿度などの自然環境の影響を受けて、水分を取り込んだり放出したりと呼吸を続けているのです。
その繰り返しで墨は徐々に成長し膠が変化し、長期間をかけて古墨という枯れた墨色に変わってくるのです。
墨を保管する年月がもたらすもの
どのような墨でも出来立てのものより数年ねかせることで、墨色が穏やかとなり、膠も落ちついてきます。
枯れてくるという状態までには製造後10年ほどかかりますが、墨色の鮮明度・美しさ・厚みなどが出て、のびが一層良くなります。
更にその後も墨は成長し続けて「墨の五彩」「品位」「立体感」等々、一段と見事さを増してくることでしょう。
古墨(こぼく)の新定義
墨運堂発行の『墨のQ&A』の文章の中に「墨造りの独断と偏見で申しますと、湿度の少ない机の引き出しなどに桐箱などに入れて保存された状態で、最も書き易くなる製造後10~15年経過した墨から古墨と言っていいのではないかとおもいます」と述べています。
これは新墨に対しての古墨の定義と受け取れます。
古墨の異なる定義
さて書の世界では、また違う意味での古墨という定義があります。
中国の長い製墨の歴史の中で、やがて墨の黄金期を迎えます。明時代嘉靖年間の羅(ら)少華(しょうか)、万暦年間の程(てい)君房(くんぼう)・方于魯(ほううろ)などの墨匠達があらわれ、まさに見事な墨が造られます。
中国の古墨は、保存状態にもよりますが、長いもので400年、短いものでも100年余りと寿命が長く、現在使用してもその真髄が発揮されます。
日本の古墨は良質なものでも100年も経ると、磨れば泥状になるものが多いそうです。
美術品としての古墨
書の特別展などで、明墨・清墨・乾隆御墨などの古墨が展示されることがあります。それらの姿は威風堂々と美しく、相当に堅いであろうとも感じます。実用だけでなく、美術品としても見事で秀でています。


2、古墨で書かれた水墨絵巻
横山大観「生々流転」
皆さんは横山大観(1868~1958)の「生々流転」という作品をみたことがありますか?
大正12年大観55才の時、何と全長40m余りの絹本に描いた水墨絵巻です。
東京国立近代美術館の所蔵で重要文化財に指定されています。
墨色の美しさ
勿論、作品の展開と画力は壮観で素晴らしい傑作であることは間違いありません。
しかし、今回の稿では、その使用された墨色の美しさをお話ししたいと思います。この作品に使用された墨は、中国明時代に作られた「鯨(げい)柱(ちゅう)墨(ぼく)」という墨です。
水戸の殿様からいただいた金より価値があるという名墨で、最高の墨で最高の作品を描いてほしいとの願いで賜われたものでした。(大観は明治元年水戸藩の下級武士の子として生まれた)
当然、大観自身も心血を注いで傑作を作ろうと誓って筆を執ったことでしょう。
この名墨の美しさを適格に文字で表現することなどは全く難しいのですが、澄んだ美しさの内に濃淡渇潤の妙は筆舌に尽くしがたいものです。誰がみても感動することでしょう。
墨の宿命
さて、ここまで古墨の美しさについて述べてきましたが、本稿ではそれだけが目的ではありません。
明・清時代の古墨など、今の我々は先人のコレクションを見るのみで、とうてい手の届かぬものです。
墨は磨られて始めてその役を果たすために、形が無くなることは宿命です。しかし、「生々流転」のような作品が残されたことで、じかに本当の美を体感できます。眼を高めることの最高の手本がそこにあります。同じにとはいきませんが、少しでも近づこうとすることは可能でしょう。
最後に一言申し上げておくと、最高の墨でも、それを最大に活用する力(感性・技術)がなければ、墨本来の美しさを引き出すことなどできません。
作品は濃淡・渇潤の表現効果が何より見事で、まさに生きいきとした墨色で見応え十分。
機会があればみておくことで、墨色の美しさの基準が持て、今後の書作に大いに役立つことでしょう。

墨の保存
墨は常に呼吸を続けて、日々その気象条件によって変化しています。それゆえ、健やかに成長して生き長らえるためには最良の環境が必要です。
現代の墨保管事情
昨今の住宅事情、エアコンの普及等々、昔とはずいぶん変わって、あまりに自然環境とはかけ離れてしまいました。
墨のために整った条件といえば「急な温度、湿度の変化が少ない所に保存すること」が大切です。
土蔵での保存がベストとのことですが、一般家庭では無理ですから、タンスの中や机の引き出しなどに入れておくようにします。
ひび割れやカビには注意しましょう
10年も経った墨は少々のことでは割れなくなりますが、新墨では影響を受けやすいので特に注意が必要です。
気密性の高い容器やビニールなどは湿度が内に残っていたりするとカビが発生します。
また、夏場の気温・湿度が高いところに放置すると、墨が空気中の水分を吸収する際に細菌が侵入して(膠はタンパク質のため細菌の栄養源となります)カビや腐敗の原因にもなり、墨としての機能が失われます。
墨の桐箱は、先に述べた土蔵蔵と同じような条件が整っていますので入れておくと良いでしょう。
同じ原料で同時に製造された墨も、各々のおかれた環境の差で古くなるにつれて素晴らしい墨色になる墨もあれば、駄墨となってしまうこともあります。墨の立場になって最良の保存に努められることが大切です。
なお使用後の墨は、磨り口と側面部の水分をしっかり拭いて乾燥した所で保存します。




